
左京区に関わる素敵な変人インタビュー
京町家を新築して復活させようと奮闘する変人
祗園内藤工務店
内藤 朋博 氏
プロフィール
1978 年京都生まれ。京町家建築に特化した祗園内藤工務店五代目。幼少期からスポーツ万能で高校のバスケットボール部ではダンクシュートを決めるほどだったがサーフィンは驚くほどできず夢中でのめり込みプロを目指す。家業を手伝ううちに大工に魅了され 28 歳で父の他界を機に継承。町家文化継承のため NPO 法人祗匠会を設立。「心町家塾」として町家大工の育成にも携わる。昨年より約 90 年ぶりの本格的な町家を新築。京町家ツアーも企画し京町家の魅力を伝えている。
町家大工という伝統建築の世界で、プロサーファーを目指していた過去をもつ
内藤朋博さん。事務所は東山だが左京区民。
サーフィンについて「できないから、おもしろさを感じた」と語るほどのレジリエンスで、
減少していく京町家を新築することで復活させようと奮闘する。
大工を目指したきっかけから、現在、そしてこれからの展望について伺った。
−−祗園内藤工務店を継いだきっかけを教えてください。
内藤朋博(以下略) 祗園内藤工務店は、町家建築や町家改修をしており、僕で5代目になります。小さいころ、親父はよく現場にも連れていってくれていました。舞妓さんが住んでる置屋さんから、父はよく「電気がつなかないから見てほしいねんけど」「うちの猫が降りられへんねん」とか「なんでも屋」のように呼ばれていて、そういうときにも父はよく僕を連れていきました。すると、女将が「ぼん、これ、はい」って寸志をくれるんです。そんな思い出があります。実は、僕は18、19歳のころプロサーファーを目指しており、父のところには、その活動資金のために働きに行っていました。手伝いとして月に10万円ぐらい稼ぎ、兼業でガソリンスタンドでもバイトして、22歳ごろまでは本気でプロサーファーを目指していました。親父は何も言わずに好きなようにやらせてくれていました。サーフトリップ(合宿)という名目で、要は、ただひたすらひとりでサーフィンしていました(笑)。ある日、宮崎にサーフトリップに行きました。その一週間後に日本のプロサーファーの大会があるという偶然の機会でした。そうすると、プロサーファーも含めてみんな前乗りしてくるんですよね。ある日、低気圧が通って、波が激しくなっていた日、「これはちょっと海に入るのは難しいんじゃないか」と思っていたら、プロサーファーたちはどんどん入っていく。今は、日本は世界レベルに近づいてきましたけど、20年前は海外には太刀打ちできないレベル。車の中から、海に入っていく姿を見ていて「あの人たち、絶対外国人だ」と思って、様子を見ようと思って海に入って行ったら、なんとまあ5歳下の、奄美大島出身のルーキーの子でした。「この波で、こんな大技を決めるのか!」「この子と戦うのは、ちょっと無理かも!」と志が折れて、泣く泣く帰ってきました。
その後、また親父の手伝いをしているときに、僕を目覚めさせてくれたのが塗装屋さんの職人さんでした。大工の場合、のみだけでも何種類もあり道具がたくさんあるんですが、彼らの道具は塗料が入った下げ缶と刷毛一本。「わ、道具これだけか。少な!」と思うほどシンプルなんです。それでいて、僕だったらあちこち養生しないとべちゃべちゃになってしまうような、柱のへりの部分を、すーっとこう、きれいに塗っていくんですよ。めちゃくちゃ難しいところを、一直線に一気に塗っていく。「うわぁ、すごい!」と、もう、その仕事ぶりに見とれてしまって。後ろから思わず、思いを込めて真剣に「めっちゃテクってますね!」と伝えたら、鬼の形相で「なめてんのか、お前!」と言われて。「いやいや、なめてませんけど」と答えたら「わしはプロやぞ」と。僕は、職人のことをただ職人としか捉えていなかった。プロというのは、プロサーファーとか、プロゴルファー、プロ野球など、スポーツなどにしか使えない言葉だと思っていたんですよ。それで親父に「お父さん、職人ってプロなの?」と聞くと「それで仕事して、日当をもらって、家族を養って、立派なプロじゃないか」って言われて「そしたら、俺、大工するわ」と伝えていました。当時は「プロ」に憧れていたんでしょうね。何者かにはなりたい。でも、何者になったらいいのかわからない。そんな年頃だったんだと思います。
−−職人さんとの距離が近すぎてすごさが見えてなかったということでしょうか。
たぶん「職人」という言葉よりも「プロ」という言葉のほうが魅力を感じていたんでしょうね(笑)。僕は運動が好きで、小さいころからスイミングに通っていて、競泳選手として、試合にもバンバン出ていました。それで、サーフボードの上に乗って横に滑るなんて楽勝やん、と思っていたら、これがもう難しくて。大体のスポーツ見よう見まねでできたんですけど、サーフィンは全然できなかった。それで、「これ、面白いわ!」と魅力を感じたんです。できないから面白い。できないからサーファーになりたい!と思って、どんどん、どんどん、どんどんのめり込んでいって。やるからにはプロになるぞ!と。それを、親父は許してくれていたんです。
車の後ろのシートを全部外して、ベッドを組んで、ボードを積んで海に行くわけです。田舎のほうに行けば行くほど、8時にはピシャッと全部、町中の店が閉まる。波がいい日は、暗くて見えなくなるまで海に入っていたいから気づいたらどこも店が開いてないみたいなこともありましたね(笑)。そんなこんなで自由にさせてもらったんですけど、心が折れて帰ってきて、塗装屋さんに怒られて目が覚めて、大工になると決めて。親父に「大工の基本の基を学んでこい」と言われて、よその工務店に修行に行きました。私たちの世界は4年間が修行期間なんです。4年間が終わったら、そのお礼奉公が始まります。「親方ありがとうございました。1年間、最後は勤めさせてもらいますって。昨日まで、でっちだったのが、今日から職人。舞妓さんで言うたら芸妓さんになる、その襟替えみたいな話ですね。そうして、職人としてお礼奉公を始めて4ヶ月後に、父が急逝したので、祗園内藤工務店に戻ったんです。もしも、親父が生きていたら、僕は、祗園内藤工務店に戻らずに、ずっと、親方のところで大工をしていたかもしれません。墨付け、刻みは、この四年間の修行中に学びました。昔ながらの石の基礎、竹小舞の土壁、屋根・瓦などは、祗園内藤工務店の町家の現場で学びました。大工として、父からは管理や段取りを学び、技術的なことに関しては基本的に職人さんから学んだという感じです。
親父の後を継いだ時に、一番難儀したのが、実は、集金でした。それまでは、バイト時代も含めてすべて「給料日」という日が、当たり前のようにやってきて、僕はただ、それを受け取るだけだった。当たり前に、その日がくればもらっていたのが、「集金」という業務ができた。丁稚奉公の間は月10万円、丁稚上がって日当1万5千円になって、満額だと月37万5千円。忘れません、この数字。でも、世間様に対して、「自分」がいくらもらえるか。言ってみれば「俺の価値いくらやねん」みたいな状態ですよね。それで、苦戦しました。あるときは、何百万という金額を現金で持参いただき、僕が「ありがとうございます」と札束を持って封を破ったら「なんで、封を破るんだよ! こうやって帯を外すんだ」と言われて、「わかりました」と数を数えていたら、今度は「お前、金の数え方、知らないのか」って言われてしまう。もう、あたふたしました。それで、「札勘」というお札を数えるための練習するものを買って、そのまま銀行に行って、銀行員さんにお金の数え方を教えていただいたんです(笑)。それなりに練習はしていたので、様にはなっていたんですが、横で弾いていたんですよ。それから、めっちゃ修行しましたよ。お金の数え方の修行です。おかげさまで元銀行員のお客様にも「内藤さん、お金の数え方上手やね」って言ってもらうようになりました。やっぱりそれぞれプロの人の仕事っていうのもあるんだなっていうことが、一つひとつわかってきました。そんな僕の祗園内藤工務店の始まりでした。本当に急な親父の他界でしたから、親父の残した仕事の数件から始まり、その時の集金も困りましたし。職人さんもひとりいてくれましたので、次は、営業ですよね。営業なんて全くしていないじゃないですか。親方の仕事に毎日ついて行っていたのが、急に営業までやらなきゃいけない。どうしたらいいだろうかと。でも、なんとか得意先だったお客さんが紹介してくれたりして、そこで見積もりも鍛えてもらいました。
親父と一緒にいた時は手伝うだけだったので、結局、親父は僕のことをどんなふうに思っていたのかというのも、直接は聞いていません。間接的に、取引先の材木屋さんの大将とか番頭さんに、「お前のお父さんはこう言っていたぞ」となどと聞くことはありました。親父からは「お前は、うちの仕事をこういう風に継いでいくんだぞ」と言われることは一度もなかったんですよ。老舗の人たちで集うと、不思議なもので、みんな「お前は何代目として継ぐために生まれてきたんだから」とはひとつも言われていない。結局、ちょっと一度みんな違うとこに行って、やっぱり戻ってきているという方が多いようです。結局、僕にとっては継いでみて一番難しかったのは集金だと思っていたんですが、よく考えたら、小さい時に、実は舞妓さんの置屋に連れて行かれてもらっていた「寸志」。あそこで集金っていうのを、もうすでにやっていた(笑)。ということに最近気づきました。
−−京町家を新築されたそうですね?
はい。昨年の春に着工して、この夏に完成しました。本格的な新築の町家としては、約90年ぶりのことです。阪神淡路大震災後に改正された建築基準法によって、町家を新築するためには「限界耐力計算」という、非常に複雑な手続きが必要なんです。実際には、京都の市街地の細長い土地で、両側に建物があったりするのですが、広い野原にポツンと一軒家を建てるのと同じ条件において、風力や地震などの外力に対して建物の安全性を、計算で証明しなければいけない。その計算だけで5ヶ月ほどかかり、さらに第三者機関の審査にも通らなければならない。その間の人件費を考えると膨大な費用がかかるし、時間もかかる。これでは施主さんの負担が大きすぎて、町家を新築する機会や意欲が失われてしまいます。
実は、いま京都市が国土交通大臣に働きかけてくれていて、国土交通大臣があらかじめ安全だと認定した構造に限って、限界耐力計算や第三者の審査を省略できる制度、「国土交通大臣認定(図書省略認定)」を申請してくれているんです。その申請に動いてくださっている方は、昨年のうちの町家新築現場の上棟式にも来てくださって、「このタイプをモデルにして進めていきます」とおっしゃっていました。もちろん、うちが建てる前から動いてくださっていたのだろうと思いますが、弊社が町家を新築したことが、その後押しとなっているのはうれしい限りです。京都の学識者や、伝統構法の建築に携わる大工や左官といった職人の意見を集めて取り組んでおり、これが認定されれば、京町家をどんどん新築できるようになります。
−−つまりテンプレートの通りだと厄介な計算や審査が不要になるんですね。楽しみですね。
そうです。テンプレートは、いわゆる「一列三室型」で200パターンくらい審議しているようです。町家新築への流れができてきたので、あとは、職人を育てていくことが重要になってきます。いま、「心町家塾」で町家を建てられる大工を育てているんですが、これまで心町家塾では卒業した人に「終了証」しか渡せていなかったんです。でも、せっかく学んだ技術に対して、なにか資格を作ってあげられたらいいな、というのは以前から思っていて。そんなときに前出の「国土交通大臣認定」の話を聞いたんです。テンプレートの条件に、どんなふうに木組みをするかなど、細かく定められているようです。それならば、その木組みをマスターできたら資格を与えてもいいんじゃないかと思い始めています。
今、うちの従業員に、29年間ほぼ外国で過ごしてきていて、人生の半分くらいをアメリカで過ごした子がいます。彼の母親は日本人なんですが、日本語もままならないんです。でも、その熱量は半端なくて、ものすごいスピードで成長しています。彼の友人のアメリカ人やカナダ人など、特に、日本に血縁がいなくても、「日本で働きたい」って言っている若い子たちがいるそうなんです。今、これだけ日本に伝統構法の大工をやりたい若者がいないんだったら、僕はもう、そういう彼らにちょっと助けてもらわないといけない、と思っています。彼らがいつか来た時に、ちゃんとこの世界に属せるように、町家に特化した、本当は日本建築に特化した資格を「新たに作ったれ」って思い始めています。新築の町家を建てたことから、こんな発想になっていくわけです(笑)。実際にできるかどうかはわかりません。その技術は、日本の財産になりますから、それで、逆に日本の若者たちに焦ってもらいたい。「なにそれ、俺たちやらないでいいの?」みたいな状態になってくれたらと考えています。そうなると、もしかしたらうちの息子も、「それだったら俺も」と言い出すかもしれない(笑)。いつも言っているんですが、私たち日本人は「外の方がよく映る」わけです。お互いに、なんですけどね。こうした話を、保証協会とか銀行に相談していたら、おもしろい行政書士さんを紹介してくれた。僕一人ではできないけど、祗園内藤工務店とNPO法人Japan Craft21と、こうした公的な機関、士業の方たちと、みんなで力を合わせれば、できそうな気がすると思っています。行政書士さんも「内藤さん、ここ10年以来で、もう久しぶりに本当に感動して、本当に火がつきました」って言ってくれました。京都市は、もう京町家を新築で建てるマニュアルを作ってくれる流れにあるし、府は京都府産の材料を補助してくれるように交渉していますし、どんどん流れができてきています。
心町家塾の第3期生には非常に優秀な受講生がいますので彼らをきっかけに動いていくチャンスだと思っています。いろいろな人のご縁のおかげだと思っています。もう、彼らのような大工と出会えたこと自体がうれしいです。最近、「国宝」という言葉がよく耳に入ってくるんですよ。人間が持っている技術は、もう本当に国宝になっていくと思います。
−−どんどん引き寄せておられますよね。
本当にありがたい話です。いまは、ほぞ穴を開けるにしても、角のみ機を使えば1分もかからずに、ほぞ穴を開けることができます。だったら、こだわらずにプレカットの工場で穴を開けたらいいと思っています。プレカットができない梁などは、人がやればいい。機械と分業できれば、町家の新築も、年間数棟建てることも、あながち無理ではないかもしれないとちょっと思うようになってきました。
問題は土壁です。一番最初の荒壁。竹小舞を編むことと、荒壁を塗ること。これはもう絶対に人間じゃないとできません。そういうわけで、今後は、左官を育てていかないといけないなと思っています。荒壁を塗れる左官屋さんは、京都にまだいらっしゃいますけど、荒壁は無理だという人も多いです。左官屋さん、それから瓦屋さんの育成に力を入れていけば、ひとつの工務店でも年間10棟ぐらい建てられる可能性が見え始めてきています。
京都には有名な工務店がたくさんあります。いい仕事をしておられるのに、みんな海外に行っているのをご存じでしょうか。正直、親父の跡を継いだ当時、海外で仕事をしているとか聞いたら羨ましかったですよ。もう、海外でもいいから京町家を建てたいと思っていました。だけど、最近、そういう方たちに出会うと「日本をほったらかして、海外行っている場合じゃないですよ」と伝えています。「日本の京都の建築が、このままだと価値がなくなってしまいますよ」「うちみたいなこんな小さい工務店が、町家大工の塾もできるんだから、いっしょに日本を盛り上げましょうよ」と話しています。
−−そうなると、あとは施主さん側の予算の問題があると思うんですが、京町家を建てるならローンの金利も低くしてくれたりしないんでしょうか。日本の京都の文化を守ろうとしている人に少しでも建てやすいようにと、銀行や国からサポートがあってもいいのではないでしょうか。
そうですよね! それを、一番がんばらなきゃいけないのは京都の銀行じゃないかなと思います。ちょっと今度、それも交渉してみたいと思います(笑)。

心町家塾の入校式の日、新築町家の現場を見学する受講生たちに説明する内藤さん

受講生が質問しやすい雰囲気と緊張感の絶妙なバランスで進められる心町家塾の様子

2024年9月の京町家の新築現場。6メートルを超える通し柱は実際に見ると圧巻!
町家大工を育てる「心町家塾」の見学会

改修だけではなく新築できるような町家大工を育てようと祗園内藤工務店が共催している「 心 町 家 塾 」は、NPO法人JapanCraft21のサポートによって無料で受講できる(条件あり)。次期の入塾を検討する人や、従業員への入塾を検討する方向けの見学会も始まった。
日 程:8/3、9/7、9/28、10/26、11/9
時 間 10:00 〜 12:00
場 所:祗園内藤工務店作業場(京都市左京区)
参加費:無料
申込み:https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdAHV6Bz-M8FYpjb879ihSWNQ_aYsMC1f6iT-EqbyCi1ij64A/viewform?pli=1
見て学べる京町家ツアー

祗園内藤工務店が京都市の京町家賃貸事業として活用している築 100 年の町家「聚楽猪飼邸」で、町家の構造や部位の名称について実際に見ながら内藤さんから解説を聞き、その後、石場建ての新築現場を見ることができるツアーを開催。京都の人はもちろん観光客にも人気がある。
日 程:2025 年 8 月 23 日(土) 10:00 〜 12:00
場 所:京都市中京区聚楽廻西町 123 聚楽猪飼邸
参加費:無料(電車代実費)
問合せ:NPO 法人祗匠会
申込み:https://forms.gle/hhGWn3iMvJ8NGpas5